この本を読了したが、注目したのが日本の原爆開発について。
こんな記事↓が検索ヒットしたけど、うーん、なるほど
『世界が隠蔽した日本の核実験成功』ってホントかよ?
不都合な真実ってか。
■日本が密かに進めていた原爆開発
北朝鮮に1992年から取材のために43回通ったが、日本による植民地支配の実態を知るための取材も数多く行なった。そうした時に、日窒興南工場で核開発が行なわれていたという話も聞いた。尹昌宇さんも「表向きは肥料工場となっていましたが、爆薬だけでなく核兵器の製造に使われる物質を大掛かりに製造しようとしていました」と語る。
日本が行なった核兵器開発は、戦後はそれにかかわった原子物理学者たちが口を閉ざしたものの、その内容はかなり明らかになっている。ただ朝鮮で実施した核開発については、北朝鮮やロシアのメディアが興南沖での核実験について報じたことはあるが、その実態は分からなかった。
米国政府は日本の核開発に対する徹底した調査を行ない、その内容は長らく最高機密として米国国立公文書館に眠っていた。だがその中の興南で行なわれた核開発について、その一部が明らかになったのである。
「日本が第2次大戦中に核開発を進め、興南の沖合の小島で1945年8月12日に核実験にも成功していたことは、(略)各種資料、特に米政府内部で秘密文書に基づき調査していたトニー・トルバとドワライト・R・ライダーの発言からも、明らかである」(『世界が隠蔽した日本の核実験成功』矢野義昭)
「ライダーによれば、興南は日本の核努力の『頭脳』だった。占領地域から送られてくる資源がここに集められた。興南ではウラン鉱石の精錬も重水の製造もできた」(同上)
朝鮮半島北部は、マグネサイト・タングステン・モリブデン・黒鉛、そしてウランなどの鉱物が確認されている。「興南には(略)大規模なウラン235の分離を行う能力を持った産業施設と電力があり、試験的な分離装置が設置されていた」(同上)という。
核開発に必要なウラン鉱石の精錬や原子炉の減速材として使用する重水を製造するための膨大な電力が、興南にはすでにあったのだ。
■研究成果狙うソ連と中国
1945年8月9日にソ連軍は、中国東北地方とともに朝鮮へは北端の国境から侵攻。そして東海岸を一気に南下した。私がインタビューした3人の朝鮮人の元労働者は、工場側はソ連軍が来る前に施設を爆破しようとしたが朝鮮人労働者たちが阻止をしたと語った。
興南工場を占領したソ連軍は核に関する設備を持ち去らず、開発を続けた可能性がある。また、日本人技術者ごとその設備をソ連へ移したという見方もある。いずれにせよソ連は、1949年には原子爆弾を完成させた。
1950年6月25日に、朝鮮戦争が始まる。米軍は興南工場に対して7月30日から4日間にわたって、B29爆撃機で工場施設を徹底的に破壊。使われた爆弾は1500トンだという。工場を案内してくれた副技師長は「朝鮮戦争で工場施設の約80パーセントが破壊された」と語った。
「注目されるのは『朝鮮で巨大な核工場施設を一掃』と題する豪州紙『キャンベラ・タイムズ』の1950年11月28日付東京発の記事である。『原子爆弾の材料が、興南のギアン火薬と化学の作業場で、B-29 により完全に破壊されるまで、造られていた』」(『世界が隠蔽した日本の核実験成功』)
また『ニューヨーク・タイムズ』1950年10月26日には、韓国軍が興南郊外でウラニウム処理プラントを発見したとの記事があるという。ソ連管理下の北朝鮮で、工場が破壊されるまで核関連の作業が行なわれていたというのだ。
こうしたことは9月25日に仁川(インチョン)へ上陸した米軍などが興南も占領し、そこでの核開発について徹底した調査を行なって判明したのだ。
興南での日本の核開発に対する戦後のソ連と中国の対応を、『世界が隠蔽した日本の核実験成功』を執筆した矢野義昭氏は次のように見ている。
「ソ連の大戦末期の突然の北部朝鮮急襲も、朝鮮戦争への中国の参戦と長津貯水湖での激戦も、興南の核施設奪取が主な目的だった」(同上)
日窒が水力発電のために建設した長津湖で行なわれた戦闘は、1950年11月27日に始まった。米海兵隊第1師団など連合国軍約1万5000人は、長津湖周辺で中国人民志願軍8万5000人に包囲され、興南に退却。米軍は約3000人が死亡し、12月24日に興南港を500トンの爆薬で破壊して撤退した。
なお中国では現在、この激戦を描いた映画『長津湖』が、9月30日から上映されている。制作費は約222億円で、10月1日の国慶節に合わせて公開されたこともあり大ヒットしている。
矢野氏は興南などで日本が行なった核開発の上に、戦後のソ連と中国の核実験とその保有があり、北朝鮮の核開発の潜在力は日本の成果を継承したものだとする。
「日本窒素肥料興南工場」で、核開発が行なわれていたのは間違いないだろう。にもかかわらず、そのことは戦後の日本で問題にならなかった。それは、朝鮮戦争へさまざまな形で“参戦”して多くの死者を出したことと同じように、「平和国家・日本」にとって“不都合な真実”だったからだろう。
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